公開日時:2018/12/14
執筆者:硫化西部(RykSeb) ホームページ
この記事はhimeshi_hob様ご主催のSimutrans Advent Calendar 2018というイベント用に執筆したものです。
2018年も終わり近いこのご時世、CSSから心を込めて手打ちしました。レスポンシブデザイン? 知らんな
現状中途半端な段階のため、内容面で欠け・重複が見られます。後日追記修正するつもり(今は)ですので、どうかご容赦ください。
みなさん! 景観プレイしてますか???
………………と言ってワァッと手が挙がってくれればいいんですが、恐らく本格景観プレイを行う方は少数派でしょう。日本でもそうでしょうし、海外ですともっと少ないかもしれません。
ところが、つい先日himeshi_hob氏により公開されたOTRPatchのv19_3に搭載されている市内建築物範囲ランダム建築機能により、状況は大きく変わりました。
すなわち、リアルな景観を求めてタイルを埋めまくる手間が劇的に削減されたのです。これは景観プレイ黄金時代が来るぞ、いよいよSimutransは地理ゲーと化すぞと、そういうわけなのです。そういうわけだよね?
で、いろいろ書くことを考えながら資料を用意したのですが、よく考えたらこういう景観プレイ記事をお読みになる奇特な方に高校地理の記事を書くのも釈迦に説法かな〜という気もします。そういうわけでこの記事ではSimutransでも重要かと思われる『都市化』にフォーカスを当てます。
現実的な景観プレイを始めてみたいという方の助けになれば幸いですし、そうでなければ、軽く読んでほどほどにエッセンスを取り入れていただければ幸いです。この記事無駄に長いので。
すべての土地は、利用されているものとそうでないものとに分けることができます。利用されている土地は宅地(住宅地だけではなく、建物用地全般を指す)、農地、林地に分けることが出来ます。
土地が宅地以外から宅地に変化することを、ここでは都市化と呼びます。というか一般的にそう言われているように見受けられました。厳密な定義は知りません。
そして、都市化以前の土地、すなわち宅地以外の土地の中で特に特徴的な構造がみられるのが農地です。農地は、下手したら宅地以上に変化に富んでおり、それゆえマップ内で地域ごとに景観に差異を付ける際には有効だと考えられます。ということでこのチャプターでは都市化前の農地を取り上げます。書くことに困ったら高校地理の教科書を受け売りすることにします。
【今日の英単語】
settlement:集落
集落です。集落とは人が集まって住んでいる場所のことです。
都市化後では土地が空いている所すべてに家が節操なく建ちますが、都市化前の農業地帯では家を建てる場所は何らかの理由に基づき選択されます。(したがって、都市化前からある家の立地条件はそうでない家と比べて良い傾向にあります。)そして、家が建てられる場所が選択された結果、地域によって異なる集落形態が生まれます。集落形態はやがて住民の心理に影響し、最終的にはいわゆる「風土」的なものを形成するのですがこれはまた別の話。
とにかく、集落は集村と散村に分けられます。前者は集まっていますが、後者は集まっていません。集落としてどうかと思う。
集村は塊村と列状村に分けられます。塊村は、井戸などのある場所に家屋が塊のように集中した形態で、一般的に西日本で多く見られます。列状村は、何らかの原因で家屋を建てるのに適した土地が細長い形状をしていた場合に形成されます。
列状村は、道路と関係する場合としない場合があります。道路が先にあって、道路の恩恵を得るため道路沿いに家を建てた場合は、路村または街村と呼ばれる形態になります。道路とは関係なく、地盤が良い、または水の入手が容易といった地形的要因から建てた場合の形態は(狭義の)列村と呼ばれているようです。
この辺の用語になってくると適切な英訳が見当たりません。すごいね。
塊村についてはよく分からなかったので、一応CiNiiで検索したのですがほとんどありませんでした。
一応、古代の土地開発制度として条里制というのがあり、これは109mを一辺とする正方形を『坪』と呼ばれる単位として農地の区画を定めるものです。これにより形成された集落は塊村の形をとります。縦横6坪の区画は1里と呼ばれました。一部の文献はこの里という単位を、古代の統治単位である五十戸(のちに里と改称された)と関連付け、条里制の1里に50の家屋が存在するような記述をしているようですが、Wikipediaを読む限りでは両者に関連性を見出すことはできませんでした。CiNiiでもそれについて調べようとしましたが、それっぽい論文がサーバーメンテナンス中で閲覧できなかったので現状謎です。
列状村です。Simutransではまあまあ目立ちます。
路村で最も有名なのが武蔵野台地の新田開発でしょう。地理の教科書には三富新田とかが必ず載っています。武蔵野は台地で水はけが良いため、畑作が積極的に行われてきました。
さて、三富新田みたいなものは関越道の三芳PAに今でも残っているわけですが、ここで取り上げるのはむしろ都市化の様相です。ということで都市化のビフォーアフター。1955年と現在の新座駅周辺の様子を掲載しておきます。これ以降、古い航空写真はすべて国土地理院の提供によるものです。
提供 国土地理院 独自に縮小・トリミング加工・注釈追記を実施
1955年の方に書き加えられている緑の四角形は、将来新座駅が出来るであろう箇所を示しています。かつてメイン道路だった道路は県道109号線に指定されています。国道254号線は1955年時点では影も形もありませんが、1955年当時の畑の区割りと現在の住宅街の道路配置は明らかに類似しています。
Googleマップのほうを拡大してみると、かつて屋敷森に囲まれた農家が立ち並んでいた県道109号線沿いは、心なしか緑が多く、建物配置がゆったりしているように感じられます。一方、かつて畑だった部分では家ばかりが整然と並んでいます。
【今日の英単語】
dispersed:分散した
基本的に見出しは英語で統一してイキりたかったのですが、先ほどの集村がすべてを台無しにしてしまいました。
さて、こちらが現代でもみられる散村の一例です。高校で地理をやった方ならご存じでしょうが、富山県の砺波平野です。今では富山県の専売特許みたいになっている散村ですが、かつては武蔵野台地などでもごく普通にみられました。
散村は多くの場合屋敷森を伴います。屋敷森は風の強い方角に向けて作られることが多いとされています。航空写真を見る限り、冬の季節風を避けるためか北向きか西向き、あるいはその両方に作ることが多いように感じます。
どうやら屋敷森は高度経済成長期以降減少傾向にあるようです。また、後記する二子玉川付近の事例を見る限りでは、都市化に飲み込まれた屋敷森はほとんど形跡を残さず消滅してしまうようです。総じて散村は、都市化後に形跡を残しにくい傾向にあるように見受けられます。
さすがに英語では書けませんでした。泣いてる。
農地の区画整備がSimutrans的に意味を持つのはなぜか? それは農地の区画整備というのはニュータウン開発と並び、大規模な区画整理が行われるイベントだからです。
田の区画整理は、古くは牛耕馬耕、近年では機械耕を容易にするために行われてきました。区画整理は17世紀の時点で既に行われており、千葉、長野、岐阜、福井の各県で盛んだったといいます。明治33年には政府により耕地整理法が施行され、区画整理はより加速しました。(出典:http://www.pref.akita.jp/fpd/meigi/meigi-01.htm)
ここで重要なのは、農地が都市化した場合、農地時代の道路配置をかなり高確率で受け継いでいることです。大規模な計画都市は例外ですが、自然発展による場合はほとんど確実です。
農地の区画整備は圃場整備として現代でも行われ続け、区画未整理の曲線的な田んぼは減少の一途を辿っています。一方、区画が未整理のまま都市化した地域では当時の道路構造が残ります。一度都市化してしまうと大規模な区画整理は困難になるためです。その例がこの下。
左のほうの提供 国土地理院 画像クリックで大きな画像を新規タブで開きます。
1948年と現在の寝屋川市駅周辺です。
1948年の画像からは、区画未整理の田と区画整理済の田が両方見て取ることができます。区画未整理の田はここまで複雑怪奇な区割りだったとは意外でした。
現在の地図(あえて写真ではなく地図を表示させています)を見てみると、1948年当時区画未整理だった部分は都市化後も複雑な区割りを保持しています。したがって、この地域では、区画整理よりも都市化の方が先行したことが読み取れます。
また、1948年の画像からは塊村が見えます。現在は都市化により飲み込まれてしまったように見えなくもないですが、区画整理済みの農地だった所と昔から宅地(塊村)だった所の区別はつけられます。もともと塊村は不規則に家が並んでいたため区割りは複雑になる傾向にあるのです。大分分かりにくいですけれどね……。
特集です。という名の、当初書こうとしていた部分です。看板書き換えまくった結果構成が変になり、内容の重複とかが発生していますが放置しています。とにかく東京都と神奈川県に跨る二子玉川駅周辺地域です。メインパートなんだから読んでよ。
ここを選択した理由としては、
・複数の鉄道路線が絡むのでSimutransでの状況に近い
・自由が丘、二子玉川、田園都市線沿線など計画都市が多く、Simutransでの状況に近い
・平地と丘陵地を同時に眺められる
・都市中心部から適度に離れているので宅地化による景観の変化がわかりやすい
・市街化した時期が異なる複数のエリアが同時に眺められる
・大きな川があり、橋の様子がわかる
などが挙げられますが、実は大体フィーリングです。
一応最後のほうに二子玉川以外の地域の概説も載せておくので、よろしければそちらもご覧ください。
記事中で使用した航空写真類は、国土地理院で公開されているものをもとに、独自に注釈を書き加えたものです。
また、航空写真中の注釈はわかりやすさを重視して現在の駅名で表記しています(廃止された玉電瀬田駅を除く)。
提供 国土地理院
画像クリックで縮小前の画像(約1MB)を新しいタブで開きます。
PCの方は画像とこのページという2つのタブを駆使して読み進めていただくと、少しは理解しやすくなるかと思います。
さて、開幕早々申し訳ないのですが、実はこの画像に二子玉川駅は写っていません。二子玉川駅が写っている1936年の画像もあるのですが、次に取り上げる1945年のものと大して変化がなかったため省略いたしました。
ここでは、自由が丘駅・田園調布駅と、自由が丘駅から二子玉川駅方面への大井町線が写っています。1936年8月の撮影です。
現在と比べると大分長閑ではありますが、自由が丘(当時は自由ヶ丘)や田園調布では建物が密集する様子がみられます。
農地は田んぼか畑かは分かりませんが、ともかく比較的区画整理されているようです。尾山台駅周辺では宅地化が始まっていますが、このとき農地の一区画ごとにまとめて宅地化している点に着目できます。こうした宅地化のスタイルは現在の郊外部でもよくみられます。
自由が丘駅周辺は沼地を埋め立てて造成された土地で、当時から高級志向の街として名をはせていました。また、田園調布は日本ではかなり初期にあたる計画都市で、田園都市構想に従って設計されています。田園調布駅西口の特徴的な街路構造は、もちろん今でも健在です。
田園都市という概念についてですが、もとはイギリスのハワードが新たな都市開発形態として提唱したものです。これは都心部への人口集中を避けるため、都市郊外部に職住近接の新都市を建設するというものです。この、本来の意味での田園都市の一例としてはつくば等が挙げられます。
一方、田園都市という概念は日本独自に書き換えられ、現在でいうニュータウン的なものを指すようにもなりました。これが田園調布であり、小田急の林間都市であり、阪急宝塚線であり、東急田園都市線です。こうした『日本型』田園都市は職住近接ではなく、都心部への通勤を前提としています。視覚的には、広々とした街路とか並木道とか公園とかがみられるのが特徴です。
……が、Simutransにおいて職住近接という概念は存在しないので(産業施設という例外もありますが)、これ以上詳細な話は割愛いたします。皆様のマップにおいても、Simutrans的解釈で田園都市を作ってみるのも面白いかもしれません。
提供 国土地理院 独自にトリミング加工・注釈の追記を実施(以下同じ)
画像クリックで縮小前の画像(約1MB)を新しいタブで開きます。
太平洋戦争真っただ中、1945年1月の撮影です。多摩川の北が東京都、南が神奈川県です。まだ2月以降ほどには空襲作戦が本格化していない頃でしょう。
以前の画像と比較すると、等々力駅や尾山台駅周りでの宅地化がよくわかります。戦局も悪化する中、僅か9年足らずでここまで発展するとはさすが東急沿線だなあ(などと)。
鉄道の状況ですが、現在の大井町線は全線開業済みで、溝の口駅までの運行です。田園都市線は1966年まで開業しませんが、その代わり二子玉川から渋谷までは『玉電』と呼ばれた路面電車が存在していました。
さて、丘陵地界隈については次の画像で述べるとして、ここで書きたいのは多摩川を渡る橋の少なさと、多摩川周辺の建物の配置です。
現在、この写真の範囲内では多摩川に5本の橋が架かっていますが、1945年時点ではわずか1本です。その1本の橋を道路と鉄道が共有していました。やはり橋梁建設はコストがかさむのでしょう。
多摩川周辺の建物の配置をよく見ると、川岸から川幅くらい離れた位置に集中していることがわかるかと思います。これは恐らく自然堤防上に家を建てる習慣によるものだと考えられます。
自然堤防とは河川から少し離れた位置に形成される微高地のことで、微高地のため比較的洪水に強く、地盤が安定していることが特徴です。河川周辺で自然堤防以外の場所は、洪水時に水のたまる湿地になります。これは家を建てるうえでは不利ですが、水田にするには適しています。
自然堤防について詳しくは検索してくだされば分かると思いますが、とにかく宅地化が進行する前は家は自然堤防上に建つことが多いということが言いたいのです。
また、二子新地駅(当時は二子駅)から溝の口駅(当時は溝ノ口駅)にかけては列状に建物が並んでいますが、これは別に東急線沿いに並んだわけではなく、もともと溝口地区が街道の結節点であったことに由来するものです。こうした村落は街村と呼ばれます。
二子玉川駅と二子新地駅周辺はそれぞれ多摩川の渡しの拠点として発展した渡津都市で、鉄道が開業するずっと前にはある程度賑わいを見せていました。したがって、この列状の市街は街道の結節点である溝口地区と渡しの拠点である二子地区とが融合した結果だと考えられます。
ちなみに溝口集落を形成した二つの街道が交わるポイントですが、高津駅の西側の交差点がそれです。このころまでは溝口地区の中心地は、溝の口駅ではなく高津駅でした。
提供 国土地理院
画像クリックで縮小前の画像を新しいタブで開きます。サイズが大きい(2.4MB)のでモバイル回線の方はご注意ください。
高度経済成長期前半、1957年10月の撮影です。
多摩川を渡る橋はまだ1本のままです。溝の口駅前が大分発展してきました。梶が谷駅周りの丘陵地は相変わらず緑一色(役満)です。
玉電瀬田・用賀駅辺りは昔から特に何もなく、大規模開発の手も入れられてきませんでしたので比較的自然な都市化がみられます。
この画像は古い割には比較的鮮明なので、農業地域の様子がよくわかります。
左上のUNCLASSIFIEDという文字の右あたりには屋敷森のようなものを伴う農家がみられます。どうやらこの地域の農家は家屋の北側に屋敷森を設ける傾向にあったらしいのですが、現在では宅地化が進み、それを見ることは叶いません。屋敷森は風の強い方角に向けて作られるのが普通です。
この住宅たちの配置は比較的かたまっています。西日本でよくあるような密なかたまり方ではありませんが、宅地と農地が比較的区別されている集村の範疇に入れていいと思います。
こうした屋敷森は調布市や豊島区、練馬区といった地域でもごく普通にみられましたが、そちらは家が田の中にバラバラに建つ、散村と呼ばれる形態を取っていました。(散村は後で少し取り上げます。)また、船橋市や江戸川区などでは集村ではありますが屋敷森は殆どみられません。この写真のような、屋敷森を伴う緩い集村という形態は多摩川の景観を特徴づけるものだといえるでしょう。……と書きたかったのですが、亀有のあたりの川沿いでも似たような様子が見れたのでまあ、そんなもんかな、と。
梶が谷駅予定地周辺(当時田園都市線は未開業)は典型的な丘陵地の様相を呈しています。
丘陵地というのは低い山(標高30m~100mくらい)と小さい平地とがパッチワーク状に並ぶ地形のことですが、こうした地形では平地部分は原則として水田に利用されます。住宅は低い山の根本部分にまとまり、結果的に列状に並びます。これは山の根本から湧き水が得やすいためだったはずです。多分。
また、画面左端付近では丘陵を切り開いて住宅地にしたようなところを見ることができます。ちょうどこの高度経済成長期辺りから郊外部の宅地開発が進んだといっていいでしょう。
溝の口から二子新地にかけて、東急線からしばらく北に行ったところに広い道路が出来上がっています。これは街道町として発展した溝口が大きくなりすぎたため街道の方がバイパスを作って逃げた格好になります。ほかの道よりも黒っぽく見えるのは恐らく本格的な舗装が行われているからでしょう。1970年までの日本では、道路舗装というのは結構贅沢な装備でした。今では新しい広い道の方のみ国道指定されています。
提供 国土地理院
画像クリックで縮小前の画像を新しいタブで開きます。サイズが大きい(2.9MB)のでモバイル回線の方はご注意ください。
僅か18年の間にいろいろなものができました。橋が新たに4本架かりました。道路と鉄道の共用橋時代は1966年に幕を閉じています。1969年には二子玉川駅前に高島屋が開業しています。
そして何よりも田園都市線が開業しました(ただし新玉川線は未開業)。沿線には大規模な宅地開発が入り、梶が谷駅以南は原形をとどめないほど変化しています。まだ更地も目立ちますけどね。とにかく、これが東急電鉄です。敵に回してはいけません。
やはりモータリゼーションが進んだおかげで道路面では大分整備が進みました。画面内だけでも、東名高速道路、首都高速3号渋谷線、第三京浜道路が開業しています。
さらに、武蔵野線(貨物線区間)が開業したため大規模貨物ターミナルが建設されているのもわかります。
なんていうか、もうよくわかりません。
と言っていてはどうしようもないので、道路の配置について書いておきます。
21世紀に至り、この地域は大半が建物で埋め尽くされたわけですが、どこでも見た目が同じというわけではありません。
大半の平地にある宅地は、元々は農地だった場所です。1945年の画像と比べていただければ分かるかと存じますが、ここではかつての農地の区割りに基づいて家が整然と並んでいることが読み取れます。
一方、平地は平地でも溝の口付近の、昔から市街だった場所では建物の並びが複雑です。二子新地駅〜高津駅周辺を拡大すると、小路が迷路のように入り組んでいることがわかります。最近は各停にすら通過される両駅ですが、実は大変由緒ある地に建っているのです。馬鹿にしちゃだめだよ。
また、梶が谷以南の新たに開発された丘陵地はニュータウン的街路構造を持っています。ニュータウンでは広い道と狭い道とが明確に分離される傾向があります。すなわち、素通りする車は広く走りやすい道路を走り、住宅街内部の道は地元の人のみ使う、というような設計がよくみられます。ある種『未開』の地に走りやすい道路を敷設したことによる緩くカーブした道、というのが(Simutransでの再現は困難ですが)丘陵地ニュータウンを特徴づけるものとなります。これ以南の田園都市線沿線は(長津田周辺を除いて)どこでもこういう道路の引かれ方をしています。本当にどこでもです。嘘だと思ったら地図を左下にスクロールしていってみてください。
ここまで書いておいてなんですが、こういう内容に興味を持ってくれる方って大体自分で調べてしまうのではないでしょうか。
というかどうやってSimutransに落とし込むんだ……???
気を取り直して、ほしいアドオンを書きます! 他力本願!
果樹園! 斜面の景観要員として茶畑はあるけれど、このままだとマップ全域が静岡県になってしまうので、できれば青森長野和歌山あたりの要素も取り入れたいです。
アーケード! 今回取り上げませんでしたが、商店街のアーケードは良いアクセントになると考えています。
温泉宿! どんな辺境の地でもこれがあるだけで観光地に早変わり。贅沢言えば高度経済成長期に新館が出来るタイプのやつが最高です。
ということで、無駄に長くまとまりを欠く記事ではありましたが、これにて締めさせていただきます。ここまでご覧いただきありがとうございました。願わくばSimutransの一層の発展を願って…………